もし、今、好きな作曲家を3人あげるとすれば、ためらわずベートーベン、モーツアルト、シューマンをえらびます。
5人ならば、バッハとシューベルトが加わります。7人ならば、えーと、ショパンと谷村新司かな。
しかし私は、高校2年まで、クラシック音楽とは、まったく無縁でした。少年時代は、笛吹き童子といわれるほどリコーダーにこりましたが、中学になって相性の良くない先生から楽典なる授業をつめこまれ、とたんに音楽が嫌いになりました。ですから、今でも勉強が好かんという子供の気持ちは、自分なりに分かるような気がします。ですから成績が落ちても何にも悩むことはありません。先生のせいにすれば良いのです。そして、いつまでもめげてないで、気持ちを取り直し、又頑張ることです。
高校2年のとき全共闘の運動がキャンパスを席巻した時、友達のすすめで私は、ノンポリ派の代表として生徒会長に立候補したのです。3学年12クラスを昼休みの間に立会い演説をしてまわりました、そして当選、生まれて初めての選挙運動でした。その時の参謀役の木村君は、慶応大から新日鉄に入社し、活躍していましたが、八幡出身のご令室とお子さんを残して、30代で急逝されました。最後まで、私の総選挙を心配し、病院を抜け出して議員会館に会いにきてくれました。今から思うと、彼は、その時すでに死期を予感していたのかもしれません。僕にはもったいない友人でした。衷心よりご冥福をお祈りします。
さて校則の自由化問題で、私は、規則の遵守を励行する立場をとったため、学生運動派のグループから守旧派と非難され、彼らと厳しい対立緊張関係に陥りました。全校集会で自己批判を迫られたこともありました。連日、悩みましたね。結局、学校で高熱のため倒れ、2ヶ月も入院生活です。高校3年の夏でした。体力にはまあ自信があり、高校では、マラソンで一番でしたが、この時は心身ともに限界でした。9月にやっと退院して、復学したのですが、受験の切迫感、プレッシャーと虚脱感でうつろな日々でした。当時、私は、京大の哲学科に志望を変えたいと思いましたが、父からは絶対反対といわれ、精神的に最悪の日々を送っていました。
その頃、ひょんなことから、ベートーベンの運命を耳にしたのです。それまで堅苦しく、しんきくさい、お勉強の延長のような、あるいはブルジョワ文化のアクセサリーにしか思っていなかったクラシック音楽が、これほど弱い自分を勇気ずけ、晴れ晴れとした気持ちに変えてくれるとは。
ベートーベンをきっかけに、音楽が、その日から心の友になりました。日本の芸術愛好者は、耳の聞こえなくなった彼が一度は自殺を考え、思いとどまり、バッハ、モーツアルトに続く偉大な音楽家に成長してゆく姿、つまり真摯な求道者のイメージを強調することが多いのですが、私はむしろ、義理と人情に厚い熱血漢で、ふられてばっかりだけど恋多きロマンチストの一面にほれるようになりました。
若い頃の名作、月光、悲愴、ピアノコンチェルトの4番、5番、ヴァイオリンコンチェルトにみられるロマンテイシズムは、年をとってもまったく変わりませんでした。真の芸術家は、死ぬまで青年ですね。政治家もそうありたいと思います。最後のピアノソナタ32番のアダージョ、弦楽四重奏14番などに歌いこめられた憧れのファンタジーに私は、今でも深く感動します。晩年という言い方をする評論家は、彼に対して失礼だと思います。
上品でエネルギッシュな8番のシンフォニーには、中年の魅力を一番感じます。
ベートーベンの不滅の恋人は誰か、多くの学者がアプローチしてきましたが、私は今でも、29歳の時に出会ったピアノの弟子、テレーゼ フォン ブルンスヴィック嬢だと察しています。長い間、最有力視されながら、現在は、少数派というより否定されているようです。むしろ若くして未亡人となった妹のヨゼフィーヌを指摘する方が多いようです。ほかにも月光を献呈したグイチャルデイ、求婚してあっさりふられたマルファッチなども有名です。
不滅の恋人とは、現存する熱烈なラヴレターの相手のことですが、それはそれとして、生涯、忘れ得ぬ女性は、テレーゼと思いたいのは、彼の献呈した曲が、余りにも素晴らしいからです。不滅の名作ピアノソナタ熱情は、37歳の時、姉妹の兄のブルンスヴィック伯に献呈されていますが、本音は、テレーゼへのプレゼントではなかったでしょうか。3年後、ピアノソナタ24番が、テレーゼに献呈されました。自室の四つの壁の中で、一人で楽しむべき親密でロマンチックな曲とは、著名なあるピアニストの評です。
身分の違いもあって結婚を断念したと察します。彼女の方は、貴族の令嬢でしたが、孤児院のお世話をしながら独身で生涯を終えたそうです。
レオノーレ序曲、フィデリオには、彼の理想的な女性像があますところなく描かれています。一般にシリアスなタイプは、女性にはもてません。
彼は、家庭的には恵まれませんでした。人生後半は、弟の家族との泥沼の人間関係に苦しんでいます。甥カールのことを大変心配し、母親との親権争いで裁判です。相続人をカールに指名するほど甥を愛しましたが、その家族のために、ひどく神経を消耗する日々だったと伝えられます。甥が就職で世話になる貴族には、傑作の弦楽四重奏嬰ハ短調作品131が献呈されました。このカルテットには、疲れきった孤独な魂をいやす神秘的な力を感じます。彼の最高峰の作品の一つでしょう。
また隠し戸棚から時々彼女の肖像画を取り出して、ひとり涙していたとも伝えられています。
年末には恒例のように第九交響曲が各地で演奏され、NHKでも放送されます。年末の儀式みたいな取り扱いには、ベートーベニアーナの一人としていささか疑問を感じますが、何度聞いても傑作です。
18世紀後半から19世紀前半にかけてのドイツ社会は、中世の貴族社会が没落してゆく過程にあり、フランス革命、ナポレオン旋風の吹き荒れた時代です。時代の黄昏を敏感に感じ取った貴族の多くは、とりわけナポレオンのウィーン攻撃に衝撃を受け、自分たちの将来に大きな不安を持ちつつ、芸術活動に真剣に打ち込んでいたと思います。ロッシーニなど当時の花形作曲家に比べて、遊び心にやや欠ける彼の真摯な芸術が存命中に評価されたのも、この時代背景があったからでしょう。葬儀には、ウィーン始まって以来の数千人が参列しました。
この荒廃したヨーロッパには、理想主義の芸術家が数多く活躍しています。ドイツ語で書かれた文学史上、純粋無比といわれる詩人ヘルダーリンをはじめ、シラー、ゲーテ、シューベルトなど、その時代の苦悩を背負い志の高い美学を追求した数々の作品があります。その象徴が、第九です。
さてこの第九の一節が、政党の結党大会でせりふをかえて歌われるという事件がありました。新進党です。なんと言う進行シナリオでしょう。墓の中でベートーベンは、どう思ったでしょうか。
それに対し、ベルリンの壁が崩れ、ドイツの統一がなった時のベルリンフィルハーモニーの記念演奏は、レコードで聞いても真に感動的でした。ベートーベンの最高の出番だったでしょう。
フルトヴェングラーの指揮したベルリンフィルハーモニーの戦前の演奏は、私の知る限り最も感動的なものです。
振ると面食らうといわれたドイツの指揮者、フルトヴェングラーは、戦前ベルリンフィルハーモニーでしばしばベートーベンを演奏しました。分かる気がします。ナチ支配の戦時体制下で心あるドイツ人が、どれだけ苦悩し、心の救いを求めていたか。
また若いドイツ兵士の中には、前線の塹壕でベートーヴェンと同年に生まれた薄幸の詩人ヘルダーリンを読む人が結構いたそうです。
また、狡猾なゲッベルス宣伝相が国威発揚のため、ワーグナー演奏などでフルトヴェングラーを利用したため、戦後ナチ協力者と連合国軍が疑念をもったのですが、これは、大きな誤りだったと考えます。彼は、パルシファルやマイスタージンガーを見事に再現しましたが、ナチスとは無縁でした。ユダヤ人の芸術家を擁護するため、真摯に活動しました。むしろナチ党員であったカラヤンはどう戦前を生きたのでしょうか。
私は、フルトヴェングラーの演奏を片っ端からききました。そしてシューマンのニ短調交響曲の限りなく情熱的な演奏に出会ったとき、彼こそは、ドイツ音楽の最もよき理解者の一人だと感じました。
後継争いでチェリビダッケに勝利したカラヤンが、フルトヴェングラーからタクトを受け継ぎます。戦後のドイツ音楽は、ポピュリズム(大衆迎合主義)に傾いていったと指摘する評論家は少なくありません。ただ、帝王と呼ばれる以前のカラヤンのオペラ、ラテン系の演奏に文句をいう人は、まずいないでしょう。ばらの騎士のフィルムは永遠に語り継がれる作品でしょう。結局、美学、美意識の違いでしょうか。
かつて20代の頃、ウィーンを旅した私は、ベートーベンの住んでいた家を訪問しました。階段を上がって行くとき、感動でどうしようもなく足がふるえました。小窓から見える教会の鐘の音がある日聞こえなくなって、初めて聴覚の異常に気付いたと伝えられている所です。彼の愛用したピアノのそばで、その教会を眺めながら、彼が書きそして破棄したハイリゲンシュタットの遺書のことを思い出しました。
その晩、彼の家の前にある酒場で私は、ドイツワインの味に開眼しました。臨終間際に彼は、とびきり上等のワインを所望し、1806年物リューデスハイムワインが枕元に届けられましたが、「残念、もう遅すぎる」とつぶやいたエピソードは、余りにも有名です。
それからボンを訪問しました。彼の生まれたアパートを調べ、夕暮れになってやっと一人で探しあてました。宮廷楽師の父親が、飲んだくれて深夜帰ってきては、ベートーベン少年をたたき起こし、彼を特訓したと伝えられる家です。あれから220年たったのに、大事に保存されています。ここが、ドイツ文化の偉大なところです。生誕住居前には、現在、角打ち屋があり、ビールをちびちびやれる。
父親ヨハンは、伝記では悪く言われていますが、自分の夢のすべてを子に託し、彼なりに大変かわいがっていたのではないでしょうか。彼は、親の強い反対を押し切って、寡婦のマリアと結婚しました。マリアは、厳格な舅とアル中になった姑、奔放な夫ヨハンにつかえ、楽聖を生み育てました。あの狭い部屋の中でどんな少年時代を送ったのでしょうか。ベートーベンは、母の亡くなった時、本当に愛すべき良い母であり、最良の友達でしたと書き残しています。
音楽は、ときに鬼神をして泣かしむるといいます。父も母も音楽を通じていい人であったと、僕は思いたいのですが。
ベートーベンが、少年時代、親からどういう教育を受けたのか良くはわかりませんが、早くからいい恩師には出会い英才教育を受けていました。ピアノの旧約聖書、バッハの平均率クラヴィアは、少年時代の十八番でした。
モーツアルトの父親は、自分の社会的地位、財産をなげうって、息子のために命を張った典型だと思います。おそらく、ベートーベンの父親は粗野だったかもしれませんが、モーツアルトの父親のように息子の成長が、生きがいだったのでしょう。祖父は、宮廷楽師長としてボンで著名な芸術家で、ベートーベンは、部屋にいつも肖像画を飾り、誇りにしていました。
しかし父は、妻が他界したあと酒に溺れ、22歳のベートーベンのウィーン出発をみとどけるように、他界しました。
青年時代のベートーベンを支えたのは、世に先んじて、彼の才能と人格を認め、家族の一員のようにかわいがったブロイニング伯爵家の家族だったと思います。17歳で母を失い、弟二人と父を支える繊細な青年にとってブロイニング家との交流は、大きな励ましと慰めになったでしょう。ブロイニング伯爵の未亡人は、彼の母親的な存在でした。また彼女の紹介でワルトシュタイン伯という有力なスポンサーにも出会いました。ハイドンの手からモーツアルトの魂をうけとりたまえ、と励ましてウィーンに送り出した人です。
79回も引越しした彼が最後に選んだアパートは、ボンからウィーンに出てきて久しいブロイニング伯爵家のすぐ近所でした。そして57歳の臨終の枕元には、幼なじみのブロイニング伯が、ベートーベンのお気に入りだった伯の息子と一緒に駆けつけました。
彼の人生に想いをめぐらす時、何事も途中であきらめたらつまらんと、思います。また彼は、耳が聞こえなくなって、ぶっきらぼうな仕草も多かったようですが、多くの友達を大変大切にする人でした。大衆におもねることなく、同時代の一定の理解を勝ち得ました。
シューマンと死別したクララシューマンは、演奏会でベートーヴェンを好んで弾きました。とくにハンマークラヴィールという大作を愛していたようです。誠に素晴らしい後期の傑作です


僕の好きなBの肖像画
ハンサムではないが実直な表情がいい
