2007年11月 大連市訪問記

11月20日(火)

市長に就任して最初の外国訪問は、友好都市の大連だった。
今年の5月、アカシヤの花が咲く季節にジャパンウィークのイベントが催され、大連市長から招待を受けた。大連市が友好関係を結んでいる日本の15自治体の首長が大連でサミットを行った。
あれから、半年、1年に2回の同じ都市への公式訪問は、おそらくもうないと思うが、内部協議を重ねる中で、いくつかの目的を確認し、異例の再訪中を決定した。

この日は、訪中の直前まで公務をこなしながら、その合間に訪中の資料を読みかえす。今朝は、8時50分から、市庁舎でいつものように内部協議からスタート。全会派代表者会議で12月議会の提案、来客の応対。戸畑消防署の開所式で主催者挨拶と続く。消防署内を視察し、来賓の地域の皆さんと一緒にレスキュー隊の訓練を見守る。いつ見ても、実に見事な救助訓練である。
訪中の資料を携帯して、そのまま福岡空港へ。車中で、中国共産党大会関係や日中経済貿易関係のファイルに目を通す。

午後、中国通の小田文化国際部長や企業ミッション、技術協力7周年でセミナーをおこなう水道局メンバーと空港で合流、うどん屋で結団式。15時10分発で福岡空港から友好都市の大連市へ。約2時間、東京へ行くのと変わらない。本市は、アジアに本当に近いと感ずる。
ところで中国は姉妹だと序列ができるという理由で姉妹都市(sister city)という言い方をしない。
友好都市という。
時差は1時間なので、訪米のときと違って身体がとても楽だ。飛行機は、遼東半島を左手眼下に見ながら飛び、戦前、多くの日本人が渡ってきた大連港に、さらにすすんで大連国際空港へ。大陸的な曇りの天気だが、市内の活気に満ちた様子が機上からよくうかがわれる。人口は、200数十万の大都会である。

大連空港には、大連市人民政府の王(外事弁公室副主任)国際交流副局長ら幹部職員が花束を持って忙しい中を出迎えてくれた。5月訪問の時もお世話になった。久しぶりに会う駐大連北九州事務所のスタッフも全員、元気に頑張っている。副局長と同じ車で市内へ、車窓から市街地を見やりながら、最近の北九州のできごと、例えば女性副市長の登用などを話題にする。中国では女性が社会にどんどん進出している。ところで王副局長は女性である。自分からは中国の子育てや大連市民の暖房、住宅事情などを話題にする。夕方の市内行きの道路はすいている。30分ほどでダウンタウンの宿へ着く。

夕食会は、大連市での企業セミナーや水道技術協力、北九州市大連事務所のメンバーなど日本関係者と一緒に。通訳が入る外国政府要人との食事は、まさに仕事であり、言葉の壁はあつく、非常に気を使うが、今夜はリラックスできる。最近の中国情勢や明日からの行程、大連市職員の北九州市受け入れの歴史、大連市長との会談内容などの打合せを兼ねている。最近の中国情勢は、こんなフランクな会合のときに、外務省や学者の情報よりはるかに新鮮な情報をたくさんキャッチできる。友好都市になって28年の歴史をしっかりと飲み込む。


11月21日(水)

訪中の目的の一つは、貿易振興である。
今回、本市は中国に投資する意欲のある企業ミッションを企画した。5月に大連市長に会って本市への温かい配慮を感じとったが、日本企業が3000社を超える中で、北九州からは10社余にとどまっているのはもったいないと思った。以来、中国への投資について井上貿易振興課長など関係部局に研究調査を指示していた。今回、中国ビジネスに関心をもつ企業に働きかけて、ミッションを結団したので、自分も同行することにした。大連市政府のご好意で、受け入れの態勢をととのえていただことに感謝したい。はたして何社がビジネスパートナーを見つけられるだろうか。小倉のエイムビルには、本庁の貿易振興課、貿易協会の部屋に続いて、大連市の北九州事務所がある。
朝、北九州の地場企業を中心に集まった日本の企業18社が参加したミッションと中国企業のお見合いの席へ行って、日本企業の経営者に挨拶をしてまわる。これから商談のまとまることを期待する。大連市政府からは、経済貿易担当の責任者が顔を出していただき、かたい握手をする。

貿易関係者との懇談が一段落して、次の目的地に出発する。
夕方の大連市長との会談までの間、自分の希望がかない、旅順視察と博物館などの訪問がセットされている。旅順は、一部を除いて、外国人に自由な観光を解禁していない。軍関係者が慎重だという。日本にとって、はたして旅順は魅力的な観光地たりうるのだろうか、そんな思いで往復2時間のバスに乗り込む。自分にとっては、映画「203高地」の悲惨な戦争のイメージしかない、勝利はしたが、あまりにも大きな犠牲がでた。旅順は、初訪問である。

大連市政府職員の案内で旅順方面へ向かって市内観光をしながら、バスを走らせる。10時過ぎから、夕方まで。めずらしく快晴だった、というのは、5回の訪中で中国はどうして曇りの日がこうも多いのだろうかと以前から感じていたからだ。203高地から旅順港が見える確率は、小さいと聞いていた、はたして、この天気ならば、見えるだろうか。途中、バスの中で、市内の状況を大連市政府の幹部職員と旅行ガイドが交互に説明してくれる、僕からもたくさん質問をして旅日記のメモに書き留める。

まず中山広場へ。ちゅうざんと読む。広場を囲むように日本統治下の欧風建築が保存されており、円形の実に魅力的な公園スポットである。道路はパリのように放射線状に延びている。右手近くに上野駅と類似する大連駅が見える。戦前の写真を見ると、おおむね当時と同じような街並みが残されている。あの旧大和ホテル、旧日本の銀行の外形も全く変わっていない。
イトキンの撤退したビルが見えてきた。旧三越の入っていた商業ビル街を横目にバスは走る。耐震構造で最も安全といわれる森ビルの中に、日本領事館や日本企業、北九州市事務所がある。
間もなく人民広場、またの名をスターリン広場に。ここは昔も今も行政の中心地で、広い。戦前の日本統治下に建設された4階建ての大連市役所、かつての関東庁だ。横に同じく旧日本時代に建築された裁判所が並ぶ。東大の建築と類似していると言われる。
次に、オリンピック広場へ、旧日本時代の建築を改良したサッカースタジアム、ここでは5月に世界のファッションモデルを集めた盛大なファッションショーが開催される。地下には巨大なウォールマートがあるが、今回はパス。ここは、一見の価値あるすごいマーケットらしい。

大連市のサッカーチームは中国で1位だったが、今シーズンは最悪の成績で5位に転落。聞いてみると、少年は、道具代金がかさむ野球より、サッカーを一般に好むという。卓球やサッカーのファンが大変多い国だ。
大連は、仙台の気候に近く、寒い冬は、マイナス12,3度まで下がり、風は大変強い。
8,9月は、31,2度まで上がるが、風のせいで逆にあまり暑くはない。中国では、避暑地として大連は有名という。梅雨や台風、地震はない。

大連に進出した日本企業は3000社を超え、日本人の駐在員は1万人で、留学生は700人にのぼる。日本語ができる中国人のギャラは高いという。インテルの大型投資の決定が話題をよんでいるが、中央政府は、現在、大連市をIT産業の拠点と位置づけている。

左手に現代博物館が見えてくる。
5月にじっくり館内を見学しているので今回はパス。北九州市が国連から環境貢献でグローバル500を受賞し、本庁舎の1階のコーナーに陳列されているが、大連市もアベックで受賞し、この博物館の一角に陳列しているのが目にとまった。ここでは、戦前の貧しい農民の写真など苦難に満ちた近代中国の歩みが克明に表現されている。苦渋に満ちた貧しい人民の表情を忘れることはできない。

星海(せいかい)広場が、左手に。天安門広場の2倍はあり、アジアで最大規模をほこる。長い間、汚れていた海岸線を再生し、大連一の海のリゾート、観光地に一変させたプロジェクトは余りにも有名である。周りには高層マンション、レストランが林立している。公園の広大な芝生には、誰も入れない、見るだけだ。海に面したところに、本を開いた形の巨大な石のオブジェクトがあり、中国語、英語、日本語で碑文がある。まさに圧巻である。5月にも散策しているが、小型飛行機が飛び、クルーズもある。丁度、凧を上手にあげている。
林立するマンションの値段は、聞いてみると、平均してuあたり20万円、100uで2000万円、ただし内装はついていない、すべて注文者の予算で追加するシステム。土地は国有で70年の使用権が認められている。
大連で自転車が少ないのは、坂道が多いため、タクシーは、3キロ140円、1キロ加算、渋滞でメーターは上がらない。ガソリンはリッター80円で、車はぜいたく品である。

右手に大連市が力を入れるソフトウエアパークが見えてきた。
500社、デル、IBM、GE,パナソニックなど大手の有名企業はほとんどここにある。コールセンターは大連市に集中し、従業員の多くは大学卒で高給料だが、毎日クレーム処理で仕事はきつい、という。デジタルアニメ産業が盛んで、漫画のソフトウエアを日本の依頼で製作している。
市街地を路面電車が走っている。242名の運転手がおり、全員女性である。女性の就業機会を確保する政策で女性の職場に変わった。
保険のことを聞いてみた。サラリーマンには、会社が5種類の保険をかけているが、このたびの共産党大会で、これまで保険がなかった非雇用者にも保険制度がスタートし、また日本の年金に当たる1万数千円支給されることになった。これまでは、子供が親孝行で世話をしてきたが、年長者も自力で生活できる仕組みが始まっている。
右手に東北経済大学。夏市長の母校だが、何と広いキャンパスだろう。ふと市立大学の窮屈な敷地のことが頭をよぎる。

市街地を抜けて、いよいよ旅順へ一本道。中山広場から車で約1時間のところにある。
途中、大きな水源ダムにさしかかる。竜王洞と呼ばれ、日中双方で植樹したサクラが1万本、ここは、桜の名所として有名だ。サクラの色はピンクで、葉の幅は広く、5月に咲く。旅順にはアカシヤも多い。緯度は青森と同じで、りんごはおいしいことで有名だが、さくらんぼもおいしい。
1997年、道路改修で道幅が2倍に。当初は有料だったが、今はフリーウエイに。時折ロバの馬車が通り、のどかな農家の家並みが続く、石炭暖房を使っているようだ。煙突から黒い煙が時折出ている。信号はない。丘陵地帯がずっと続き、視界をさえぎる建物はほとんどない。緑は比較的多い。快晴のこともあって、のどかな農村風景が楽しめる。時折、マンション建設の準備に入っているところに出くわす。
日露戦争の激戦の舞台となった東鶏冠山(とうけいかんざん)、203高地が左手に近づいてきた、あたりは、ゆるやかな丘陵地帯だが、旅順市内は山の向こう側の南方で道路沿いには見えない。

まず東鶏冠山。日本人ツーリストには原則、未開放区である。丘陵地帯のなだらかな坂道から、北側の入り口付近の駐車場へ。バスを降りると、ここが最大の激戦地だったとは到底思いつかないほど、現在はのどかな風景である。少し歩くと、慰霊碑が見えてくる。
1904年8月、日本軍の旅順総攻撃はここから始まった。1回目は日本軍の全滅に終わっている。コンクリートのトーチカがみえてきた。25門の大砲が火を噴いた北保累、日本兵はこの堅固なトーチカのために、多数の犠牲者を出した。1説に900名の戦死者、ロシア守備隊はほぼ全滅した。当時の無数の弾痕を司令部跡コンクリート壁に見ることができる。最後は、日本兵士が地下を掘って保累を爆破し、ダイナマイトを身体に巻いてトーチカに飛び込む突撃で、陣は崩れ去ったという。当時のロシア軍兵舎、食堂が風雪に耐えてそのまま残っている。ここでロシア軍幹部会が招集されたことを察知した日本軍の砲撃で大将が爆死、人望の厚かった司令官の死によって、ロシア軍の士気は一気に下がり、降伏に至ったという。小さな公園があり、1926年に建立された慰霊碑が今も建っている。
日本の帝国主義的侵略を忘れてはならない、という趣旨の碑文も見える。中国は、ロシアびいきである。展示館では、日露戦争当時のロシアの要塞が模型で配置されているが、これを見るとロシア軍がいかに用意周到な防衛ラインを築いていたかがうかがわれる。激戦あとをしばらく散策するが、自由に歩ける行動半径は狭い。トイレによったが、まだ、観光地という感じの整備ではない。ここからは丘陵の南側にある旅順港はみえない。

バスに乗って数分、203高地へ。
中腹で降りて、坂道を頂上まで100数十メートルくらい歩く。人力車もたくさんあったが、歩くことにした。急勾配の高地で、今は樹齢の浅い木が植わっているが、戦争時には禿山だったという。樹があれば、比叡山焼き討ち作戦の再現だったろう。やっと頂上へ着いた。当時の大砲や機関砲、慰霊碑のある高地に着いて、港を探した。
見えた。確かに、かなたの眼下に旅順港がはっきりと見える。
この日は、天候に恵まれ、ラッキーだった。こんなに良く晴れた日は、現地では、珍しいらしい。ここがあの203高地なのか。高地を制した日本軍は、ここから照準を合わせて山越えで大砲を打ち込み、港内の艦船を撃破したと聞くが、かなり遠い距離だ、当時の大砲の技術水準に驚かされる。
邦画の203高地は、残酷な激戦を克明に映像化している、2度見た自分には、どうしてこんなに犠牲者を出す愚かな作戦を採用したのか、長年疑問に思い続けてきた。日本軍は、バルチック艦隊が日本海に来る前にという時間的制約の中で、天然の良港、不凍港である旅順の軍艦を壊滅させる作戦をとった。203高地は湾内のみならず旅順の地形をほとんどすべて見下ろせる戦略地点ではあるが、港の背後地は丘陵地帯でどこからでも行軍できたと思う。
203高地からは、東鶏冠山をはじめ旅順のすべてが視界に入る。旅順港を攻撃するならば、まわりは、殆どゆるやかな丘陵地帯なので、他にいい作戦が考えられたのではないか。1904年11月26日から12月5日の戦いで多くの日本人が戦死した。乃木将軍は、旅順陥落後、散乱している砲弾を集めて璽霊山(じれいざん)という名の慰霊碑を建立し、今日もそのまま残されている。立て札が目にとまった。中国語で、日本の誤った侵略を歴史の教訓にすべき、と書いてある。

ところで西鶏冠山はどこにあるのか、地図で見ると旅順港を守る正面の山である、ここにも守備隊と砲台があった。ロシアは、当時いたるところに旅順港を守る要塞を築いていたことが分かる。結局、港の北西で少し離れた203高地が一番防衛ラインが手薄と見たということだろうか。
今は、観光ルートから外れているが、新田大連事務所長の案内で乃木将軍二男の戦死した慰霊碑にまいる。頂上に近く勾配のきつい坂の一角にひっそりと碑はたたずんでいる。ロシアの塹壕跡がいたるところに残っており、今は付近に潅木が茂っている。林の中の砲弾や銃弾を集めて弾丸の形をした慰霊碑を日本軍は残した。潅木の丘陵地帯があたりに広がっているが、ここは坂だ。ロシア軍の機関銃の待ち受ける頂上に日本兵士はよじ登ってきたのだ。塹壕のおびただしい銃口に慄然とする。ここを訪れた日本人は、歴史の真実をどう受け止めるだろうか。
ところで、トイレは、ふるい年代モノだった。観光地とは言いがたいが、工夫すれば、歴史の旅先として一変するのにと思う。高地への入り口付近で植樹をしているところに出くわした。開放への準備だろうか。大連市は、開放を中央政府に求め続けているが、軍がいまだに消極的だという。

203高地の次に訪問したのは、ロシア軍が降伏文書にサインした水師営。
会見場所は、当時そのままで、手術台を使ったというテーブルの前に座ってみる。細い長いすも当時のままだ。写真が館内の壁に何枚か飾られているが、その中の1枚はショックである。ロシア降伏のあと、日本兵数名が取り囲むように見守る中、スパイと思われる一人の中国人が斬首にあうところの光景である。この1枚の写真は、中国人の日本軍に対する印象を端的に表しているのかもしれない。自分にとって旅順視察は、あまり後味のいいものではなかった。
入り口のなつめの樹は、降伏したロシア将軍の馬をつないだところという。ここで記念写真を撮る。

水師営のすぐ横に中華レストランがあり、ここで田舎料理を注文する。料金は日本の5分の1以下だろうか。しかし、料理は一流で、海鮮と野菜の食材が豊富で味は比較的淡白である。
旅順市内に入る。途中、海軍基地のある軍事施設の横をバスは通るが、この区域で日本人が不用意にバスを降りると拘束される可能性もあるので、下車は控えた。大連市政府職員の助言である。衛星からすべてが見える時代なのに、と思う。広い軍港が右手道路そばに見える。左手には、緑色の屋根のクラシックな駅舎が見える。100年前の東清鉄道の終点駅でヨーロッパ風建築がそのまま残っている。開放されたら、この駅から電車に乗って旅をしてみたい。

それから自分の希望がかなって旅順博物館へ、このコースは、大連市政府の特別の配慮による、ここもまだ観光地として開放されていない。

旅順博物館、1917年建立、館長の説明によれば、デザインは日本、基礎工事はロシア人と中国人がになう。館長は、1代から10代まで40年間は日本人、その後10年はソ連人、50年たって中国人の館長が生まれた。6万点が収蔵され、国会1級文物が200点。ラストエンペラーの所蔵品、大谷氏が戦前、中国国内の探検によって収集した貴重な文化遺産1万点などが含まれる。一部を海外の展覧会に出したことがあり、青森での展覧会は盛況だったという。
エントランスで獅子が迎える。この石の彫刻レリーフは実に見事である。応接間では、高い天井、白い内壁などクラシックな建物のエレガンスにほれぼれする。ここで館長から詳しく説明を受ける。そして館内の展示を館長の案内で一緒に見てまわる。
誠にすばらしい、その一語に尽きる。倭の奴国のあった2000年前、邪馬台国の3世紀の頃を中心に展示物を見せていただく。鏡が多数陳列されている。横山大観や狩野派の絵画を多数、日本人はここに残していったが、時間の関係で日本絵画は見れなかった。1週間滞在しても時間が足りないだろう。

旅順博物館の一般開放を切に願う。北九州など日本での展覧会が開催されることを期待する。次の訪中の際の会談テーマにできればと思う。館長と握手して、バスに乗りこむ。一路、大連市内へ。夕方に到着。

夕方、2番目の大きな訪中目的である夏市長との会談。
テーマは、経済貿易の拡大、水道事業の技術協力の継続、観光・留学生などの交流拡大、友好都市30周年に向けての検討の開始など多岐にわたる。日中双方から、数名の幹部職員が同席し、両市長が交互に発言する形式。
次に、北九州の物産を多数お見せし、大連市内で北九州の物産展示コーナーの開設を要請する。ここで北九州の物産を一つづつ説明する。市長から前向きに検討するとの回答を得る。
18時すぎから、夏市長主催の晩餐会。人事の季節らしく、中国側は、大変多忙な時期だったと察するが、市長は、日本から来たメンバーに親しく言葉をかけていただく。自分は、度数の高い酒(おそらく52度)は飲めないほうだが、市長から誘われ、この日は、意を決して乾杯を繰り返す。中国側からは、市長のほかに幹部職員が多数同席していただき、友好を深める。

203高地の訪問で感情が高ぶり、夜は、なかなか休めなかった。乃木将軍二男の慰霊碑とあの写真のことが何度も頭をよぎる。


11月22日(土)

8時50分、日中双方の水道事業の幹部職員が集まった水道セミナーで挨拶をする。
このセミナー参加は、訪中の3番目の大きな目的である。これまで7年間、ジャイカの支援で大連市の水道事業の整備に対し、北九州の水道局職員が熱心に技術協力を行ってきた。成果は、漏水率を大幅に改善したことだ。巨大なダムを建設するのと同じ効果である。今後は、大連市周辺の区域の水道事業に協力する予定。セミナーで大連市の水道局長と固い握手を交わす。水道事業の協力は、北九州市と大連市の絆を強めてきた。
セレモニーのあと、中国のマスコミの取材を受ける。
昼前から、あらかじめ、僕からお願いした日本ゆかりのスポットを案内していただく。

まず星海公園を散策する。5月のジャパンウィーク、アカシヤ祭りの時に訪問して以来だ。それから、車で5分行くと、日中友好のシンボルである吊り橋、北大橋がある、寒いが、歩いて渡る。わたり終わると、愛のシンボルという彫刻がある。日本人芸術家の作品で、これをバックに中国の新婚カップルが好んで写真をとる有名なスポットだ。現在は、台座のみで、なぜか彫刻作品は取り外されている。ここから眼下に大海原が見える。春には、この一帯にアカシアの白い花が咲き乱れ、最高のシーサイドドライブコースとなる。

しばらくシーサイドを走ると、老虎灘、景勝地として有名なスポット。海岸ぞいの景勝地には大きな彫り物の7頭の虎が置かれている。この日は、風が強く、寒さで頭の血液が固まりそうな雰囲気、大陸を感じさせる冬の木枯らし、とにかく半端な寒さではない。虎の彫刻がそびえている。人影はまばらである。公園のエントランスには、北九州市がおくった時計台が、太陽電池パネルで正確に動いていた。この一帯には、ウオーターフロント開発計画の話がある。

旧満州への玄関口であった大連港に立ち寄る。全貌のみえるところを探したら、港の玄関口の対面に港湾事務所の高層ビルがある、守衛にお願いしてエレベータで最上階に上がる。売店があるのにもっと一般のお客さんが入りやすいようにすればいいのにと思う。港を眼下に見下ろせる港湾局の高層ビルに入り、エレベータで屋上の展望台に行く。
眼下には大連港の桟橋がすべて見下ろせる。展望室には、戦前の港の写真がかかっている。ここから、日本人は、満州とよんだ中国大陸の内陸部に目指していった。現在は東北地方といわれる。写真を見る限り、港のレイアウト、光景は、ほとんど戦前と変わらないではないか。女性が日傘を差して着物姿で港から街へ出かける様子が写っている。邦画のラストエンペラーでは、バイオリン演奏で出港を見送る大連港桟橋の様子が印象的に描かれた。ところで、大連産の大粒の綺麗な真珠が売店のメイン商品だが、高価で手が出ない。壁には、最近そこを訪れた女優の浅岡るり子さんの写真が飾られていた。

さて、遅めのランチは、大衆中華レストランへ。ファミリーでごったかえしている。生きた海の幸が所狭しと並べられ、食材と料理方法を指定し、好みのメニューを注文する。僕は、野菜料理をたくさん注文して、坊さんのように精進料理風中華の味をせっせと堪能する。大連事務所のスタッフの日頃の労をねぎらう。
さて、街中を歩くと、中国では道路を横断するのがやっかいだ。車優先なので、横断歩道があるところでも車が突っ込んでくる。中国人は、びゅんびゅん自動車が走る中を、平気で横断し、走って通り抜ける。え、横断して大丈夫だろうか、いつもはらはらする。交通安全を願わずにおれない。

僕のたっての希望で、旧大和(やまと)ホテルに立ち寄る。外壁は戦前のままで色は当然くすんでいる、螺旋階段や全体の構造も昔のままという。ホテル内を歩いてみる。吹き抜けの中庭の喫茶店では、しばし立ちすくむ。タイムスリップしたようだ。五味康介原作の大作、「戦争と人間」の映画を数回見た自分にとっては、これが中国体験の原点になっている。このホテルは、満州時代に大きな舞台だった。戦前の日本人にとって、忘れがたい重要な場所だったと察する。

旧ロシヤ人街。旧日本橋を渡るとロシア風の建築物がたくさん建っている。門司港レトロの図書館の原型である芸術展覧館を訪問。丁度美術の展覧会をしていた。館内を隅々まで見せていただく。レトロ調のロシア人街にロシアの観光客はいるが、商売人は中国人と思われる。一歩裏道に入ると、表通りとは全く違った世界で、中国庶民の素顔が垣間見える。ロシアと中国は、戦前も日本敗戦のあとも、結びつきは強かった名残である。

15時、大連市政府にお願いしてアポをとり、立派な大連図書館を訪問する。旧満鉄が建設した大きな施設で、今は改装して近代的なミュージアムの顔になっている。大連市政府のとりはからいで、館長をはじめ幹部職員に出迎えていただき、詳しく説明を受ける、また時間をかけて館内を隅々まで見せていただく。たまたま水彩画の全国コンクールの優秀作品の展示会が行われていた。ミュージアムの機能をフルに生かせるように、広いスペースが一階に確保されている。ただ、節電のせいか、館内は日本に比べてさほど明るくない。紅衛兵に排斥された孟子、孔子などの伝統文化が、ここでは大切に次の世代に継承されている。中国は、図書館にお金をかけているなと痛感する。伊万里の市民訪問団が明日ここで交流のため訪問するという。

新田所長の案内で大連市役所にしばし立ち寄る。市長フロアであるここの2階には、モノクロの戦前の大連市内の写真がたくさん廊下に飾られている。初めて見る写真が殆どだが、戦前の日本人は実に美しい街づくりに汗をかいていたかが良く分かる。時間があればゆっくり見たい。市役所の窓からは、綺麗にレイアウトされた中庭が見える。日本の財務省を大きくした雰囲気だ。台北の元総督府にも似ている。ここでも、戦前の日本の建築は素晴らしい、と感ずる。トイレは、綺麗で快適。部屋の看板は、アメリカと同じく数字の番号だけで、日本や韓国とは趣が異なる。内装はかなり整備されており、戦前の日本欧風建築の粋を随所に感ずる。

大連市共産党委員会は、立派な建物内にある。5月の訪問の際、書記に表敬訪問している。ここでは、書記がナンバー1で、市長はナンバー2の副書記になっている。その前を通って、夕方、旧日本人街へ。40年の日本統治時代に一世を風靡した住宅街だった。5月には車窓から眺めただけだったので、やはり歩かなくては、と思って1時間ほどあたりを散策する。
日本風情一条街が、中国の地名。表通りは家屋も瀟洒な一軒家に新築されて高級住宅街だが、一本横道に入るとタイムスリップしたような感覚に。石炭を燃やしている、石炭灰を玄関に積み上げている家も、その多くは、電気もないような貧しい出稼ぎ労働者の長屋になっている、と言われる。玄関、建物はまぎれもなく戦前の日本人家屋である、冬は凍ってスケートリンクに変わる近くの池は、戦前、日本人にとって憩いのスポットだった。
旧日本人街の一角に中国の学校があり、たくさんの保護者が子供の迎えで寒そうに校門の前で立っている。日本では見かけない光景だ。中国は一人っ子政策を採用しているが、富裕層は税金をたくさん払ってさらに子供を持てるという。
傍にある旧満鉄本社、旧満鉄病院は5月に立ち寄っているので、このたびは通過する。夕暮れに旧日本人街の石炭ストーブの黒煙が風にたなびいている。立ち去りがたいものを感じながら、乗車する。

夜は、訪中の第4の目的である大連市政府幹部との交流会。
かつて北九州市に出向赴任して活躍した大連市政府職員をまねいて、旧交をあたためる会を初めて催す。訪中の最後のイベントだ。みなさんどんどん出世して大連市の幹部職員として活躍されており、こんなにうれしいことはない。彼らは、1979年の友好都市締結以来の両市のパイプ役、北九州市の大切な友人、両市友好のシンボルであり、まさに宝である。隣の席には、大連市に中心部の中山区の区長、経済局副局長(現在は局長に栄転)が日本語で語りかけてくれ、感動する。環境、水道、経済などの局の多数の大連市職員が参加された。今後の日中関係、北九州との友好関係を大いに語り合う。この中国との人脈は、谷さん、末吉さんから継承した最大の財産の一つである。

交流会が終わって、中国の経済、政治に精通している人たちと連れ立って、中国人の経営する日本風の焼き鳥屋へ。大連市には日本人駐在員も増え、日本のお店も数多くある。話題が尽きず、深夜まで日中の経済貿易関係、中国社会の変容を中心に意見を交換する。有益な意見をたくさん拝聴する。


11月23日(金)

朝、6時起床。ニッサンのゴーン社長が今日、北九州に来る。会談がセットされているため、急きょ帰国の便を早めた。7時前には、大連空港へ出発。大連の朝は早い。バスや徒歩でたくさんの市民が出勤してくる。空は、どんより曇っている。市内を駆け回るバスは冷暖房なし、15円の大衆の足だが、どのバスも超満員である。
8時45分の便で福岡空港へ。朝が早いので、大連市政府の見送りは丁重にお断りしていた。11時20分、福岡着。そこから北九州大学へ。福岡は、大連とは打って変わって快晴。車窓からみえる山の稜線、紅葉は見事だ、外国から帰ると、日本の四季の移り変わり、自然の美しさをしみじみと感ずる。
北方の大学キャンパスへ。ゴーンがあらわれた。自動車の研究開発、企業誘致、地場企業の育成、社員の定住促進などについて自分の考えを述べる。
終わって、博多へ。県知事との初めてのトップ会談、県との行政連絡会議には3人の副市長、企画室長、秘書室長も同席する。マスコミ対応まで含めて1時間半、新幹線で急ぎ小倉へ戻る。

夜、中国の企業連合会(日本の経団連に相当)会長ご一行をお迎えする。中国政財界の要人と懇談のチャンスを得る。稲山元経団連会長との約束を果たしに北九州にきた、と中国要人。日本経済、中国の将来、中国における市場経済の将来について、また、自分からは、エコタウン、大連氏とのよき関係、青島、大連、昆明への環境水道技術供与の現状を話す。中国側は、北九州のそうした試みに深い関心を寄せ、いくつかの質問を受けた。今度は、北京で会おう、と会長からお言葉をいただく。明日は、イノベーションギャラリーとエコタウンを自分が案内する予定だ。
大連から帰国して自宅へ戻る。間取りは狭く、庭はなく、ペットもいないアパート。でも我が家が一番スウィートだ。