2000年も前の遠い国のお話。
ゴルゴダへの道は、今なお謎めいている。ペテロたちは逃げ去った。マグダラのマリヤ、母マリヤ、愛弟子ヨハネが臨終を見守った。3時間以上の残酷な死刑執行。神は、助けなかった
しばらくして弟子たちが覚悟を決めて再結集を図る。一人の30年余の短い生涯が、世界史に最も大きな影響を与えてきた。その真相はどうであったのか。感動的な数々の映画を見ながら、自分なりに真相に近づく努力を続けている。


パッション オブ ザ クライスト

イエス最後の12時間は、人類にとって今なお謎めいている。

なぜローマの刑罰である十字架刑によって、死刑がユダヤ人のイエスに宣告、執行されたのか。様々な解釈が可能だが、4つの福音書は、統一した解釈の核心を明快に記述していない。
ユダヤ体制側には、イエスの遺体を総督ピラトに頼んで引き取ったアリマタヤのヨセフなど体制側の議員にもイエス信者がいたのである。彼らは、あの夜中のカヤパ大司祭やヘロデ王の裁判経過について一定の情報を入手しえたはずである。ペテロら弟子は、逃亡していたが、マグダラのマリヤはヨセフ、弟子のヨハネ、母マリヤとイエスの遺体を降ろしたあと、直接詳しく事情を聞いたであろう。

弟子は離散後、意を決して教会結成に集結したのは、がリラヤではなく、あのエルサレムである。イエス裁判の事情は必ず明快になったはずである。福音書作家は、ローマ総督ピラトの関わりを別にすれば、大司祭カヤパやヘロデ王の裁判の真相は、明快に描けたはずだ。

あの晩の真相はどう理解すべきであろうか。福音書作家は、ローマの支配下で迫害を避け、ローマ支配層の理解を得るために、政治的配慮が欠かせなかったというべきか。

この映画は、人気俳優のメル・ギブソンが資金を出し、監督までつとめた。アメリカで2004年、センセーショナルな話題になり、全米興行4位となった。イエスが処刑される直前の半日を、ほぼ聖書の記述とおりに映画化されたとされる。アメリカでは、映画の内容に反対するユダヤ系のデモ騒ぎやリアルな拷問シーンにショック死する観客まであらわれて、超話題となった。この問題作は日本でも平成16年5月1日から公開された。
あまりにもリアルに強烈にイエスの苦しみの表情が描写される。


キング・オブ・キングス
ナザレのイエスは、クリスチャンであろうか。
おそらく生きている時も、天上にあってもそうではないと思う。
彼は、どんな人生を歩み、何を訴え、なぜ殺害されたのか、裏切った弟子たちはなぜ立ち直り、教団を結成発展しえたのか。
イエスの死後、ローマ帝国や中世の世俗的権力者と手を握り、多数派を占めた人々は、異端を排除しつつ絶対的真理の世界を作り上げた。マルチンルターや聖フランチェスコは、魔女・異端者として火刑に処せられる危険を覚悟で、痛烈に中世の教会を批判したが、それは、イエスの真実・原点にたち返ろうとしたのである。その真摯な勇気を讃えたい。
20世紀になってようやく神学界にも聖書から神話的要素をつとめて排除し、ヒューマンなイエスの歩みを再認識する流れが、生まれてきた、と聞く。真実は、今なお謎めいている。

イエスの生涯をテーマにした映画は、マタイ伝に忠実な奇跡の丘、オリビアハッセイが聖母役の3巻の大作ジーザスクライスト、丘の上の奇跡、最後の誘惑、パッション、一部登場するべンハー、聖衣、バラバ、とそう多くはない。
この映画には、随所に定型的なイエス伝とは異なる解釈があり、そのまま受け入れる気持ちにはなれないが、傑作の中に加えたい。

1961年作、イエスキリストの生涯を描いた171分のスペクタクルは、聖書の通説に忠実でないが、よく考え抜かれた脚本からなる。オーソンウエルズのナレーション、理由なき反抗のニコラスレイが監督。
映像は40年前とは思えないほど、あまりにも華麗で、2000年前の衣装や室内、セットの外形は、美しく描かれすぎたきらいがある。当時の民の貧しさ、ユダヤ教の教えの限界、救われない民衆の苦悶をスクリーンから感じ取ることはできない。

映画は、イエスの生まれる数十年前、ローマ軍のユダヤ侵攻のシーンから始まる。これは、初めて見るシーンである。これまではベツレヘムの馬小屋から物語りが始まるのが常であった。
司令官ポンペイウスは、紀元前63年、ローマの大軍を率い、エルサレムを包囲、3ヶ月で陥落させ乱入する。カナンとユダヤ王国の破壊は、市民の血で旅の埃を落としたと言われた。そればかりか、ポンペイウスは、抵抗する僧侶を殺害しながら、異教徒が決して入れぬ神殿の聖なる奥の院に馬で乗りつけた。だが、奥には彼らが戦利品として期待していた純金の神像はなく、聖壇にはモーゼの律法の巻物しかなかった。

以来50年間、ローマ軍はユダヤの国土を蹂躙し、金銀の代わりに奴隷労働でユダヤを収奪し続ける。やがてローマは、その支配に手を焼き、円滑に統治するため、ローマの支配層にとりいった残忍なヘロデをユダヤの王に任命し、傀儡政権をつくる。

民衆は、ひたすら「神から遣わされた救世主」を待望していた。

この映画は、その事実を劇的にアピールすることから、ドラマをスタートさせる。

そうした時代に、イエスは、ベツレヘムで出生する。史実とは考えたくないが、ヘロデ大王は、ベツレヘムの新生児を皆殺しにするよう命じ、間一髪でイエス一家はエジプトに脱出する。これは、旧約聖書のモーゼ出生の時の幼児殺害のシーンと重ねあわせて書かれたのではないか、また、救世主はダビデの出生地ベツレヘムに生まれるとの当時の伝承にあわせた、との説がある。真相の解明は、歴史的科学的な考察を待ちたい。
その罰が当たるように、大王は倒れ、息子ヘロデ・アンデイパスに殺される。


さて、オリジナルの解釈はバラバである。

バラバは、聖書では盗賊としか書かれていないが、ここでは、1万人の叛徒を率いるリーダーであり、ピラト総督の赴任途中にローマ軍を襲撃するシーンで派手に登場する。また、仲間は、洞窟の中で剣など武器を作り、国家転覆をめざしている。ユダヤ全土から巡礼の民衆が大挙エルサレムに集まる過ぎ越しの祭りをチャンスと考え、エルサレムの神殿でイエスの大集会を開かせ、それを利用して一気に武装蜂起をねらっていた。
イエスグループとの連絡員にはあのユダがかってでるが、これは、必ずしも奇想天外の発想ではない。


さて、映画でヨハネの存在は大きい。ヨハネの洗礼は、ヨルダン河の幅の広い浅瀬で行われ、岸から一列に並んで河中のヨハネのもとへすすむ、イエスもその中にいた。イエスの各映画では、ここのイメージが多様である。洗礼者ヨハネは大衆に大変人気があったと強調される。たとえばピラトの命令で神殿に架けられたローマ皇帝の像を偶像崇拝として厳しくヘロデを批判するところや、毒婦ヘロデ夫人、娘サロメらへの非難は恐ろしく激しい。それらはユダヤの大衆の支持をえていたが、結局、連行、投獄される。イエスは牢屋のヨハネに会いに行く。
サロメは、父ヘロデ王の前で踊った褒美にヨハネの首を要求する、気が進まぬ王もやむなく斬首を命ずる有名なシーンは、大変長い。ここは、聖書にはないが、オスカーワイルドの有名な小説を使っている。
イエスは、ヨハネの生まれ変わりではないか、というユダヤ体制側の不安が強調されているが、ユダヤの体制側が、イエスをなぜ恐れたのか、を考える上で貴重な描写である。


イエスは、修行のため一人荒野に赴く、その荒れた自然は、どこであろうか、映像でクリアに写しだされる。ジェフリーハンターの演ずるイエスの癒し、奇跡は、動かぬ手足を直し、病人をベッドから起こし、盲人の目を見えるようにし、暴れる狂人を抱擁し悪霊を追い出すシーンにとどまり、有名な数々のミラクルの話は、ローマ軍の調査資料の中で語られる。
奇跡を誇張しない解釈は共感できる。姦淫の女、罪なきものは石を投げよ、のシーンも短い。女優は美人過ぎて苦悩の表情が見えないが。長血をわずらう女を癒すシーンがないのは、残念だ。全体的に、貧しく悩める人の随伴者としてのイエスの気高い優しさを映画で強調してほしかった。

ある日、マグダラのマリヤが母マリアを尋ねてくる。自分は罪で汚れている女だと告白するマグダラに母は、100頭の羊飼いと1頭の迷える子羊のイエスのたとえ話を印象的に語る。マグダラのマリヤよ、あなたは神から遣わされた、一緒に食事しましょう、と。聖書にはないくだりだが、マグダラをイエスの伴侶と考える自分にとっては、素晴らしいエピソードだ。

ローマのユダヤ総督は、ユダヤの支配層といつも一体的に描かれており、イエスの奇跡と弟子の動きなど3年間の布教活動を調査させている。ローマ兵と神殿の警備隊は見分けがつかない設定であるが、事実だったのだろうか。

ガリラヤの山でのイエスの説教は、7000人が動員され、スペインのマドリッドの田舎で撮影された素晴らしいシーンだが、当時の民衆はローマからユダヤを解放してくれるという期待を裏切られた、と映画では総括している。イエスの教えは、平和、愛、同胞愛だ、とローマ軍の偵察者は山上の垂訓をピラトに報告する。

エルサレムへのイエスの入場シーンでは、市民から歓呼で迎えられた情景が見事に映像化された。これは、史実だったと思う。

そして新解釈であるが、バラバたちが武装蜂起する。この場面は劇的だ。待ち構えたローマ軍に完膚なきまでにたたきつぶされ、首領バラバも捕まえられる、ローマ軍の戦闘態勢の再現は、見事である。


イスカリオテのユダの解釈もユニークだ。彼は、ヘロデ体制を崩壊させるため、バラバたちとイエス信者の連合軍の結成をねらっていた。
また、ローマの剣が自分の喉元に迫れば、その時はイエスもきっと天子の軍勢を呼ぶだろう、と。ユダは、あくまでイエスがユダヤの救世主として立ち上がることを期待してやまないのである。
最後の晩餐のシーンでイエスは、ユダに対し、その考えはないことを裏切りという表現で明言した。
ユダは、カヤパのところに走っていく。イエスは、バラバと同類との趣旨の密告をした、という解釈をとる。


ゲッセマネでペテロは逃げようと進言するが、このくだりは事実だったと思う。その選択はありえたはずだが、イエスは拒否する。死刑への心の準備と言うべきイエスの苦しみ、逮捕、ペテロの裏切り、カヤパの有罪宣告、ローマ側の裁判と続く。

聖書に書かれているように、群集がイエスを殺せと叫ぶ場面は一切ない。ピラト、弁護人役の100人隊長ルシアス、書記そして被告イエスだけのあまりにも静かな法廷である。
ピラトはイエスに弁明のチャンスを与えるが、イエスは黙秘、ピラトは何とルシアスを弁護人として尋問を続ける。

ピラトの論理構成は、ローマは宗教上の冒涜は問わぬが、扇動は重罪にあたる、布教3年間の説教は報告によれば平和主義者かもしれぬが、財産放棄は反税闘争だ、ユダヤ解放のため王国、神の国を説き、非合法集会もやっている、、、。ガラリヤ出身ならヘロデ王が管轄だ、ピラトは、ヘロデ王の尋問に下駄を預け、鞭打ちで謀叛の自白をさせよ、と命令する。


ピラトの妻は、ここではローマ皇帝の娘となっているが、なぜイエスは有罪なのかと夫に問う。ピラトは皇帝の娘さえ感化した、と答える。創作の部分だが、支配層のイエスへの畏怖を鮮やかに告白したシーンである。

一方、ヘロデ王は、イエスに奇跡を見せろと毒づき、最後に王族の衣である赤い布を着せ、罪状は、ユダヤ人の王の僭称とした。一連の裁判経過はオリジナルの描写が多いが、数多くの聖書学者、歴史学者の研究成果をベースにしているものと思われる。


ゴルゴダの丘で、母とヨハネがそばで見守る。バラバが遠くから見ていた。マグダラのマリヤは離れてみている。ローマ体制側のルシアスとピラト夫人が祈りながら見守る。ユダヤ人の王という罪状が十字架にかけられる。息絶えるまでの数時間、イエスが十字架上で語った言葉は極めて重要で、福音書によっても統一されていないが、あえて詳しく語らない解釈をとった。

ユダは首吊り自殺をする。

結末は、伝統的なマルコ伝の記述にそって、マグダラのマリヤが墓をひとり見に来て、復活を最初に証するシーンが続く。次に、ガリラヤの美しい海辺で、弟子たちの前にイエスが復活して現われ、世界に教えを広めるよう述べ、弟子たちがそれぞれ出発するところで幕となる。

この映画は、ユダを除いて、卑怯な弱虫の弟子たちを詳しく描かず、責める事もしていない。彼らの苦悩も描かない。十字架上のイエスが弟子たちを赦したことへの驚き、そして悔恨と深い敬慕の想いが、キリスト教布教の原点だと考えるのだが。
弟子が再結集しなければ、イエスは歴史に残らなかったであろう。その旗振り役は、マグダラのマリヤだったと察する。
イエスの死後、歴史は動き出す。その意味で、この映画も未完である。

ブラザーサン シスタームーン
13世紀の聖フランチェスコの半生を描いた最高の賞賛にふさわしい世紀の傑作。ロメオとジュリエットのゼフイレッリが監督。
ドノバンの素晴らしい音楽が心にしみいる。
舞台であるイタリヤのアッシジは、今でも中世の面影を色濃く残した街だが、スクリーンではさらに魅力的な美しい町並みの再現に成功している。フランチェスコがこよなく愛した周辺の田園地帯の自然を見事にカメラは映し出す。アッシジの巡礼に訪れる人は、今も後を絶たない。

豪商の息子に生まれ、地主の息子らと放蕩三昧の青春時代を送り、敬虔なクリスチャンの母親を心配させるフランチェスコだったが、ぺルージャとの戦争に参加することが人生の一大転機となる。若い出征兵士は何とアッシジの教会のミサで出陣式をおこなう、そして街全体の歓呼の声援の中を馬に乗って勇ましく戦いに出発する。父は、戦争で荒稼ぎをし、せっせと教会に免罪符などの寄進をする。ミサの音楽も暗く、中世キリスト教会の本質を痛烈に映画は映し出す。

しかし、惨めな敗北だった。親友は捕虜となり、絶望のうちに一人病気になって故郷へ帰り着く。母親らから介抱を受けながら、青春時代のこと、戦争体験を病床で回想するところから、この物語は始まる。大きな心の変化が始まっていた。
ある晴れた朝、窓辺に飛んできた小鳥のさえずりで目を覚ました彼は、ベッドをようやく起きだし、その鳥を追って高い屋根の上を歩き出す。街中に、フランチェスコは少しおかしくなったとのうわさがたつ。戦争でぼろもうけをし、生涯金儲けしか頭にない父親からは激しい叱責を受ける。
また、フランチェスコは、貧しい民衆の生活や厳しい労働の現実にも目を向け、哀しみを共感するようになる。
彼は、権威の象徴である街の中心の教会には行きたくなかった。そこは、出征のミサを行ったところだ。教会の雰囲気、音楽、説教に中世の暗さを感じ取っていたのかもしれない。父に無理やりミサに連れられて行くが、聖壇のキリストの厳しい顔つきに、突然、違うと叫びだす。
ある日、郊外の荒れはてたサン・ダミアノ教会で優しい表情のキリスト像を発見し、このお顔こそイエスの顔だと悟る。神の啓示を受け、生き方を改めたフランチェスコは、田園や自然や鳥を愛し、物欲を絶つ決心をして、豪邸の窓から衣類などを貧しい民衆に投げるなどの行動で両親と決定的に対立する。
地上の富は無価値だ、物を捨てて天国の幸せに目覚めよう、そう訴える息子を母親だけは必死でかばうが、父親は怒り狂う。息子を殴りつけ、ついにフランチェスコを教会前の広場に引きずり出し、司教に裁きを受けさせる。

世俗的な父とは、ここで決別の時を迎える。教会前の広場で民衆が注視する中、フランチェスコは司教に信仰告白をする。ルッターの宗教改革の先駆とも言うべき感動的なシーンである。
自分の魂を取り戻したい、キリストも弟子も貧しきものだった、自分も自然の中に生きる、家財産、家族を捨て、天の父を求める、と。大衆の面前で彼は、全裸になり着物はすべて父に返すと言い、これからは神の道に生きる決心を宣言し、裸でひとり街を出て行く。
何と劇的な場面であろうか。

財産を放棄した彼は、まず荒れ果てた教会の再建にとりかかり、石を一つづつ積んでいく。神と自然を賛美する日々を送る。見初めていた女性アキラ(クララ)も髪をフランチェスコに切ってもらい、後を追うように信仰の道に身を投じる。かつての遊び仲間も参加してきた、こうして小集団が生まれ、彼らは、サン・ダミアノ教会の再建に精魂を傾ける。清貧に甘んじながら新しい信仰の砦を築く彼らの営みに喝采をおくるように、ドノバンの素晴らしい音楽が流れる。。
サン・ダミアノ教会は完成し、貧しい民衆は、街中の教会を捨て、郊外のこの教会にたくさん集まるようになる。信者が次第に少なくなり、焦った体制側は、司教の兵士をサン・ダミアノ教会に送り、信者を殴りころし、教会を破壊しようとする。

苦悶するフランチェスコ、ついにローマ教皇に直訴に行こうと決心する。旧友パオロは絶対に反対をするが、フランシスコとローマ教皇聖下との面会はそのパオロの取次ぎでやっと実現する。彼は、異端者として火刑を免れるため、面会の条件をつけた。教皇の絶対権威を認め、服従を誓え、と。
しかし、そこでフランチェスコは、信仰の総本山としてのあり方に率直な疑問をぶつけてしまう。空の鳥、野のゆりを例にイエスの真実、神の愛と正義を語り、地上の富と宝を捨てるよう訴える。場内は騒然とし、兵士につまみ出されるが、教皇は神の声を聞いたのだろうか、フランチェスコ一行を呼び戻す。
ここでの教皇とフランチェスコの対話は、素晴らしく印象的だ。そしてアレックギネスの演ずる教皇はフランチェスコを祝福し、若いときは自分もそうだった、今は恥じ入るとつぶやく。教皇は、フランチェスコの足に接吻する。感動したパオロも仲間に入る決心をする。

映画は、アッシジを囲む美しい山並みを写しながら幕となる。そこは、出征前に仲間と遊びに来たところ、戦場からひとり故郷に帰ってくるところでもあった。
さて、彼は、ガンで若死にするが、後継者たちが志を継ぐ。
現在、フランチェスコとアキラの教会がそれぞれアッシジに建っている。いつごろから聖人として崇められる様になったかは、よく知らないが、世俗化し堕落した中世キリスト教会への真摯な改革者、アンチテーゼとして、彼の勇気ある先駆的な行動が評価されたのではないだろうか。
英語の輸入版ビデオしかなかったが、最近DVDで見れるようになった。


クルセイダーズ(十字軍)

十字軍は、1096年から1270年までに7回行われた。その真相はどうであったのか。キリスト教信仰のため、という大義、お題目の背景には、西欧の独善的な政治的経済的野心が相当あったのではないかと思われる。

2001年製作。11世紀の十字軍の遠征を描いた200分の大河ドラマ。映像はクリアで美しく中世社会の描写が印象的である。

時は、1079年、イタリア東岸のアウロカストロという海辺の町。当時西欧は、各地で領主間の抗争が激化し政争で混乱していた。そのさなか、イスラム軍が襲撃してくるところから幕は開く。

十字軍の派遣に加わり、主人公の3人の若者が聖地に向け出発する。ローマ教皇の指令は聖地の奪還だったが、ヨーロッパ諸国から貧民や略奪期待の戦争好きがたくさん集まってきた。エルサレムを目指す進軍は、過酷で凄惨な行程だった。信仰を大義に始めた戦争だったが、それは建前で、戦争につきものの略奪やむやみな殺生のシーンが続く。

事実はどうだったのか、歴史の検証とローマ教会の総括が不可欠だ。

剣を置き、戦列をひそかに離れた2人は、エルサレム城壁内に別行動で向かった。信仰のために、愛のために、平和のために、それぞれが戦乱の中を生き抜く。市街戦の末に、エルサレムは陥落。2年たって、めいめいが故郷に帰ってくる。一人リチャードは故郷に着くや息絶え、ピーターとアンドルーの2人は、愛する人と結ばれる。

当時のエルサレム周辺のセットは興味深い。庶民の生活がしのばれる。十字軍の到来により聖都ではユダヤ、ムスリム、キリスト教徒の共生は終わり、キリスト教徒は城外に去るよう命令が下る、と言う時代考証になっているが、事実はどうか知らない。市街戦の戦闘は凄惨である。

それだけにラストシーンには、救われる。生き残ったものたちは故郷で再開し、建立された教会で鋳物師ピーターの製作した鐘の音が鳴り渡る。教会は、リチャードの墓の上に建てられ、彼が大切に持っていたエルサレム入場のキリストを迎えたという伝説の杖が飾られていた。

クオ・ヴァディス

西暦60年代、イエス処刑後30年のローマは、暴君ネロの治世下。大火災が発生し、暴動がおこる。皇帝ネロは、大火災の責任をクリスチャンに転嫁し、コロッセウムでライオンに食わせるなどの大虐殺の見世物を行ったことで知られる。ポーランドのノーベル賞作家シェンキビッチは、狂気の権力者ネロ支配下のローマを舞台にクオ・ヴァディスという歴史小説を書いた。

ローマを脅かすリギ族から人質としてローマに来ていたキリスト教徒の娘リギア。ローマ貴族の青年軍人マルクスはリギアを見初めるが、粗野でキリスト教に反発しつつも真実の愛に目覚め、ついに改宗する。しかし、戦慄の迫害がはじまると、捕らえられたリギアを救出するため、彼は命がけで闘う。

当時の苦悶するキリスト教徒たちの素顔が、鮮やかに描かれている。大虐殺のローマから離れるよう信者たちから説得されたペテロは、道中でばったりキリストに出会い、こう尋ねる。「主よ、いずこに行かれるのですか」

これがクオ・ヴァディスの意味である。主は答える。「わが民を守るため、ローマに入って再び十字架にかけられん。」

ペテロは恥じて、ローマに戻り、逆さ十字架にかけられと伝えられる。カトリック教会によれば、その場所に現在のバチカンがあり、ペテロの遺骨も発見された、とされる。

ネロによって弾圧されたキリスト教徒は、その時代の迫害と受難を乗り越えて、信者の拡大に不断の歩みをすすめた。ついにローマ皇帝によってキリスト教が国教に命じられるのである。

 

1951年アメリカ作品

1951年に、ハリウッドで製作された同名の映画はリチャードバートン主演のスペクタクルで感動的な名作である。リギアの美しさは比類がない。ラブストーリーに焦点を当てて映画化された。パウロも登場する。

この映画は、ベンハーなどの多くの歴史スペクタルのモデルとなった。

2002年ポーランド作品

170億円かけてシェンキウィッチ原作を再度映像化したスペクタクル。今回は作家の故郷ポーランドの映画である。とくに有名スターはいないが、映像は華やかで、人物描写も含めリメイクに成功している。

コロッセウムの惨状は、鬼気迫る。

インザビギニング

旧約聖書の有名な創世記の映画化。
アダムとイブ、民族の始祖とされるアブラハムと天子のお告げによる妻サラの高齢出産、女奴隷と子イシュマエルの旅立ち、イサクの生け贄、奴隷に売られたヨセフのエジプトでの出世物語と兄弟の和解、モーゼの出エジプトまでをドラマにしている。

欲、嫉妬、不信神の渦巻く当時の社会描写には妙にリアリテイーがある。神とは縁のなさそうな人間くさいエピソードが続き、神格化された聖人が主人公のストーリーになっていないところがいい。およそこの旧約の世界は、内面的な感動を呼び起こすものとは言いがたい。

カラー初期の十戒、天地創造に比べ、映像はクリアでCG効果もいいが、時間が少ない分だけ、当時の社会や習俗、人間の描写がどうしても簡略化されてしまう。
古代のユダヤ社会の恐れる神、契約者としての神の原型を理解するのは、日本人には容易ではないが、この映画はいいテキストになる。


ユルブリンナー、ヘストン主演の十戒

素晴らしい傑作。ただ見るのにはあまりにも長い時間と忍耐が必要。
2001年、僕が南アフリカに出発する前夜、時差に対応するため、この長時間のビデオを選んだが、それが確か4回目だったろうか。
モーゼの本当の人生が映画とおりだったとは思わない。特に出エジプトの奇跡などを私は信じない。しかし、あの時代に奴隷状態の民衆を指導してエジプトを出たことは史実だし、モーゼには、想像もできない苦難とそれを乗り越えるリーダーシップがあったに違いない。当たらずとも遠からず、モーゼの一面に確かに迫れる傑作。


最後の誘惑(ザ ラスト テンプテイション オブ クライスト)

10年くらい前、本屋の片隅で偶然見つけたビデオだが、キリスト教の関係者の間で上映をめぐり激しい論争のあった作品といわれる。原作は、ギリシャの哲学者カザンザキスという。キリスト教を主題にした映画には、クオ・ウ゛ァデイスという極めて注目される作品もあるが、ベンハーのように、エピソードとして登場することはあっても、正面から挑戦したものは珍しい。1988年の作品。タクシードライバーのスコセッシ監督の作品。
映画は、冒頭、イエスが罪人のための十字架を作り、刑場までかついでいくシーンから始まる。大工さんとは聞いていたが、これ自体驚きである。マグダラのマリヤにいたっては、イエスのかつての恋人であり、イエスが結婚を拒んだ過去があり、今では娼婦に身を落としているが、イエスはそのことを自分の罪だと苦悶している。驚くべきシナリオの開始である。
イエスが布教に出発してから磔にされるまでの旅は、新約聖書のエピソードにふれながら、時折、奇抜な発想で解釈したストーリーが展開する。ただ、人物の掘り下げは全般的に甘く、表面的で、イエス、ユダを除いた俳優の演技、時代考証も1流とはいいがたい。いわばオペラのように音楽の沿えものとしての舞台設定のようなレベルだ。しかし、その舞台に登場する人物、特にイエスの言動は興味深く、キリストに関心を寄せるものにとっては、十分で象徴的なスクリーンである。
砂漠や当時の家並み、エルサレムの市場の風景、ペテロの時代の漁業、磔の場面、ラザロの復活、ヨハネの洗礼、いけにえの羊、普段の質素な食事、結婚式の祝宴、最後の晩餐、神殿打ちこわしなどのシーンは、自分にとってはまことに興味深い。ところでエルサレムの通りはあんなに狭かったのだろうか。イエスのエルサレムへの入城は数千人の市民が歓呼の声を上げて出迎えてほしかった。当時、相当のイエス信者がいたはずである。捕らえられたイエスの裁判は、聖書の核心部分であり、権力と民衆、宗教間の対立という劇的な情景のはずであるが、ピラトの薄っぺらい尋問でかたをつけているところは、イエスという大きな存在感の実像からかけ離れている。ただ、映画が力点を置くユダとの対話は、最も注目される場面であり、解釈の当否は別にして単なる裏切り者に扱わなかった視点は共感できる。
イエスになぜ多くの信者がしたがい、けだし、一大勢力になろうとしていたのか。それは、後世の作り話であるイエスの奇跡ではなく、苦しんだ大衆のどん底の世界がまずあり、だからこそ心のこもった情愛に満ちた感動的な説法に多くの市民が涙したのである。また、宗教革命によって実権を握れるかもしれないという側近の期待感もあったかもしれない。それらの描写は、希薄であるが。

ゲッセマネでなぜイエスは激しくおののき苦しみ、眠り込む弟子たちをしかったのか。それは、自分の教えをもってしても旧体制の権力が揺るぎそうにない、それでも信念を貫くか、その場合、死が待ち受けていることを悟ったのではないか。当時のアンシャンレジームであったユダヤ宗教社会の限界と強大な権力、革命家イエスの気概と挫折、そして死の覚悟、その一番大切な描写において、この作品には説得力が欠けている。また、イエスと性の描写へのアクセントは、人間としてのイエスを理解しようと努める意味で否定はしないが、ローマ帝国の支配という限界状況の中で貧しい民を救おうとしたイエスの生涯において誇大化することはナンセンスである。

さて、鞭打たれ磔にされたイエスが十字架の上で意識もうろうとなりながら、タイトルのとおり、何とサタンの誘惑にあうシーンがでてくる。このストーリーがまさに原作者オリジナルの想像であり、映画のクライマックスといえる。夢の中でイエスは、蘇り、普通の人間としての生き方を選び、マグダラのマリヤなどの女を愛し、たくさん子をもうけ、年老いるまでの人生を送る。
 その中である日、改心したパウロのキリスト教伝道の説教に聞き入り、違和感を感じて議論するシーンがあるが、ここのやり取りは大変疑問である。原始キリスト教団の迫害に生きがいを感じていたパウロが罪におののき、改心して以来、命をかけて愛の教えを説いていた頃の姿がどこにも感じられない。原作者は、愛というより原罪と来世の復活を強調していた、のちのキリスト教会を皮肉りたかったのだろうか。
 臨終の場面ではイエスの弟子たちがやってくる。ユダもその中の一人だが、普通の生活をしたことを激しく非難する。このとき、イエスは、初めてこれはサタンの誘惑だと分かり、ベッドから起き上がり、はうようにその家から出て行こうとする。ここでもユダは重要な役回りをする。

気がつくとイエスは、十字架の上で最後のときを迎えようとしていた。女たちが嘆き悲しみ、イエスを見守っている。そして、「すべては成就された」との言葉を残し、息絶える。

この映画は、イエスへの冒涜だと、聖職者の多くは怒りをこめて叫ぶだろう。たしかに伝統的なキリスト観を持つ人にとっては、ゆるせない問題作にちがいないが、自分なりのイエス像を考えるときに刺激的な知的ショックにはなった。遠藤周作のイエスの生涯、キリストの誕生の2部作に共感する自分にとって、この映画は、あらためて遠藤の解釈の深さを再認識させるきっかけとなった。
ながらく絶版だったが、最近DVDになった。

バラバ

1962年、イタリア映画。イエスキリストが処刑された時代の歴史スペクタクル。神をどうしても信ずることのできない男が人生の最後に見たものは。
新約聖書に記されているように、イエス処刑の代わりに赦免された男が一人いた、名は、バラバ。名優アンソニークインの演じたバラバの赦免後の一生のドラマは、忘れられない傑作だ。常に神を疑い、そのために若き日に恋人も何もかも失ったバラバ、奴隷に落ち、懲りない人生を送るが、息を引き取る間際についに神との出会いをはたす。今は、絶版である。

奇跡の丘


パゾリーーニ監督、1964年、イエスの生涯を描いている。
カトリック教会の賞を得ており、マタイ伝にもとずくモノクロの映画。
イタリア語、カラーでない点が残念だが、あの鬼才パゾリーニの作品とは、とても信じられないいい映画である。

ダヴィンチコード
けだし、マグダラのマリヤは、イエスの筆頭弟子的な存在であり、イエスの伴侶であった。イエスの生前にペテロが弟子集団のトップということではなかったと思われる。これ自体、むきになって反駁されることではないだろう。
したがって子供を宿していた可能性は否定できないが、中世騎士物語のキーワードである聖杯が女性の子宮であったという原著者ダンのダヴィンチ解釈は、グロテスクでナンセンスに感ずる。
また、異端とされた福音書には聖婚の記述があるが、断片的な資料でエジプトの古代宗教的な意味をクローズアップするのは危険である。聖なるものとの交わりで、真理が見えるというのは、いわゆるカルトの世界である。ピリポやトマス、マリヤによるそれぞれの福音書(ナグハマディ文書)が、もしそれを教義としているのならば、イエスとは別世界の邪教集団であろう。グノーシス派は、そのような考え方は持っていなかったと思われる。こうした検証は、著者には興味がないようである。
最後の晩餐にはダヴィンチの下絵があり、イエスの横に座っている若い弟子は、ヨハネという通説は動かない。著者は、まず美術史に無知である。また、ヨハネが晩餐の席にいないというのは理解しがたい。十字架の苦しい息の中で、母マリヤのことを頼んだのは弟子ヨハネに対してである。イエスが最も愛した若きヨハネが晩餐にいないはずがない。
しかも親しい伴侶ならば、男性中心社会のユダヤにあって、女性が、あるいは妻が結婚式でもないのに、イエスの隣に座るはずもないだろう。
グノーシス(ギリシャ語で知識)派は、古代最大の異端として体制側から排斥されたが、真実を伝えている可能性はある、と思う。その中でマリヤは、イエスに最も愛されていたがゆえに、ペテロなど数人の使徒から激しく嫉妬され、うとまれたという情景描写は劇的であり、それだけに真実味がある。マグダラは、ローマカソリック教会によって1969年になってようやく聖女であったと公定されたが、1900年近く、元娼婦とされてきたのは、当時の体制側の陰謀である、との見方は昔からあった話である。それは、ダヴィンチコードの著者の発見ではなく、多くの人が気づいていたことである。
イエス処刑後、一時してマリヤの消息がぷっつり聖書から消えているのは大変気になるところで、1945年エジプトで、グノーシス派の古文書が発見される前から、学者も注目はしていた。エルサレムで使徒たちと一緒に暮らした形跡は見られない。イエスとマリヤの故郷であるガリレヤに戻ったと自分は推測しているが、消息がはっきりしない以上、マリヤが南フランスに渡ったことがないともいえない。古代フランスの研究によってその形跡はかすかに認めうるが、現時点でその根拠はあまりにも乏しいといわざるをえない。もし事実なら、多くの信者組織が生まれ、歴史の表舞台にあらわれたはずである。丘の上の教会は近年の建築であるが、もし、1900年以上前の建築物の遺跡が発見されれば、話は別である。魅力的な説ではある。
ローマ皇帝コンスタンテイヌスは、キリスト教公認によって、国家権力の迫害からキリスト教徒を守った。この決断の背景には、母親の入信のほかにどんな理由があったのか。ニケア公会議の議事録はないにせよ、客観的にみて、その時、異端として葬られた考えにはどんなものがあったのか。これらは、よく検証してみるべきテーマだ。主流派を形成したグループは、国家権力と手を握って、反主流の諸派を一気に葬った可能性がある。この指摘は、昔からたびたび指摘されてきたことで、研究はまだ続いている。
この映画は、娯楽作品だと思えばいいと思う。著者ダンは、反響を大きくするために、この話は事実だと書いた。たいしたはったり屋である。憶測やうわさをつなぎあわせただけの映画なのだから、気軽に見ればいい。
この映画によって、政治体制と結託して世俗的な権力者となったマンモス教会の解釈から少し自由になって、イエスキリストの生前の教え、実像に立ち返ろうとする真摯な動きが、この作家と味噌もくそも一緒にされてしまうとすれば、極めて残念である。