音楽雑感

大月みやこ 女の駅
2007年10月8日、大月みやこさんの歌を聴くチャンスにめぐまれた。ラストの曲に選んだのがこの曲。落ち着きのあるステージでの仕草、熱唱の合間の丁寧な語り口は、さすがに歌謡界の大御所の風格。プロの中のプロという感じ。花束をステージでおくり、終わって一緒に写真をとっていただいた。この日は、挨拶の出番まで時間があったので、たくさんの演歌を観客席で聞いたが、ゲスト歌唱は、皆良かった。
カラオケは、日本から世界に発信している文化であり、また、長寿の秘訣、健康法である。


二期会の魔笛

実相寺の演出、せりふは楽しく時に大胆である。シカネーダー一座の楽しさが伝わってくるようだ。

パパゲーノが主役だが、タミーノ王子とパミーナ姫の恋物語が舞台の主役の感あり。
パパゲーノに2回、実相寺に1回、ブラヴォーをおくる。



モーツアルト 弦楽3重奏のためのデイベルテイメント K563

ウィーン時代、借金で首が回らなくなっていたモーツアルト。彼を一番面倒見たのがフリーメーソンの仲間で金持ちの商人プフベルクだった。モーツアルトが彼に借金を頼み込む手紙がウィーン時代の4年間に18通現存すると聞くが、おそらく酒を浴びながら情けない気持ちで書いたと思う。読んでいて悲しくなってくる。その後返した様子がないので、無心だったとも言われているが。

彼は、この恩人プフベルクからの注文を受ける形でこの曲を書いた。他にもプフベルクには気を使っている。なかでも次のエピソードがある。ハイドンに献呈された弦楽4重奏の傑作をモーツアルト家で初めて演奏する場に、居合わせたのは、ハイドン、モーツアルト父子、そしてプフベルクらであった。これをみても、まさに大スポンサーである。カネに困った作曲家を最後まで面倒みた稀有のタニマチである。

作曲の動機は、カネのためだが、作品は最高の傑作である。巨匠としての風格、技巧は言うまでもない。音楽の静かな語り、愉悦、時折嬉々としてまた、物思いにふけり、甘美な過去を想起するような楽想と、手を変え品を変え、6楽章40分余で聞くものを心から和ませてくれる。好きなお酒のグラスを片手に目を閉じると、時間は止まる。3重奏の形式は珍しいが、プフベルク自身が好きな演奏スタイルだったようで注文者の要望だったと言われている。



バッハ
2つのバイオリンのためのコンチェルトBWV1043

感情の発露を抑制した古典派の時代にあって、わずか17分の時間で何と深い情感を表現していることか。
学生時代に、僕は、美学の渡辺教授の門をたたいた。モーツアルトのオペラと言うテーマのゼミナールに通ったが、先生のモーツアルト、ベートーベン評には今でも最も共感している。また、ドイツ文学の石井助教授のシューマンのリートのゼミに入った。君は花のように(Du bist wie eine blume.)の感想文を提出したことは、忘れられない。最後に杉山教授のバッハのマタイ受難曲のゼミにも参加した。
バッハは学校の教科書で音楽の父と習い、オルガンや受難曲のいかめしいイメージをいつも思い浮かべていた。ある日、全共闘の活動家で官憲から追われていた寮生の友人から紹介され、もうひとつの顔があることに気づいた。あの時代に、教会で生きていたオルガニストが、こんなにロマンテイックに心情を吐露しているとは、驚きである。

ヴィヴァーチェで、誰しも現実を忘れる。楽しかった過去の一時にタイムスリップするようだ。
せつなく甘美なラルゴで思考は停止してしまう。
アレグロの展開は、時折すすり泣くように、モーツアルトのト短調交響曲の哀しみの疾走のように、師を裏切ったあの朝のペテロの慟哭のように、聴くものの感情を激しく揺さぶる。
平均率クラビア曲集を聖書にした若き日のモーツアルト、ベートーベン、シューベルト、シューマンは、この曲で、バッハをあらためてわが師と思ったに違いない。


韓国のヤングヒットミュージック
このビートに合わせて、巨体をゆすると、かなり痩せる。
ポアゾン、イヴエキョンゴ、クニョワルイビヨル、純情、ビングルビングル、パランなどの曲は、ステップを踏んでみる。
この20数年間、音楽といえばドイツのクラシック音楽しか興味がなかったのですが、日韓議員サッカーチームのメンバーになって、訪韓した時に空港で何気なく買ったカセットを聞いてみて、好きになる。この韓国のヤングダンスミュージックは、ビートルズ以来の世界的なヒット曲ではないかなと思ったりする。


モーツアルト オペラ魔笛

モーツアルトが亡くなる年の傑作オペラ。

評論家によれば、世のモーツアルテイアンは、魔笛派か、ドンジュアン派に分かれるそうだが、これでいくと僕は魔笛派である。

この30年間、ベーム指揮、ウイーンフィルの演奏が耳にしみついているが、最近はフルトベングラーの演奏をよく聴く。

序曲冒頭のファンファーレは、3回どこかの扉をたたくように厳かに響き渡る。フリーメーソンの儀式を連想すると言う人もいる。こことの関係はモーツアルト研究の1テーマだが、音楽は、本来出版されると作曲家の手を離れるわけで、あまり背景を気にしないほうがいいと思う。
軽快な合奏。あの馬車の時代に生きながら、エフワンに象徴される現代のスピード感にも通ずるリズム。しかもエレガントな曲想の展開は実に見事だ。

何でもオペラの筋書きが作曲途中で変わったらしく、深く考えれば少しどうかなとは思うが、聴く者は、最初から素晴らしい音楽をお目当てにしており、オペラのドラマ展開としても気にはならない。

パパゲーノと言う魅力的な脇役キャストが真の主役と言える。デイスカウやプライの歌唱で何度聴いてもまったく色あせない歌だ。パパゲーナとの二重唱は、彼のどんな歌曲やアリアよりも素晴らしい。Mの素顔が見える。



13管楽器のためのグランパルテイータ
ウィーンでの作品第1号は、究極の癒し音楽の言葉にふさわしいグランパルテイータK370aであった。
13管楽器が13楽章の小宇宙を奏でる。なかでもあのアダージョの優しさは比類がない。木管楽器のまろやかな音の響きと聞き手を飽きさせない微妙で精緻なテクニックの駆使で、音色を心行くまで楽しませてくれる。疲労感が溶けていく感じだ。ザルツブルグから移住してきた若きモーツアルト。その芸術をウィーンの音楽ファンは、当時どう迎えたのだろうか。大半の聴衆は、なかなか良かった、くらいだろう。
しかし、耳のある人は、前衛的な美学の結晶に驚愕したのではないか。当時最も大衆の人気を博していた、あのサリエリなんかは、人間業を超えたこの作品のすごさに背筋が凍りつき、顔面蒼白になるほどの衝撃を感じたにちがいない。
彼にとっては、悪魔のようなライバルの出現である。
この年に彼が世を去ったとしても、永遠に作曲家として名をとどめただろう。


ロベルト シューマン
交響的練習曲 作品13

27歳の時の初版だが、24歳から25歳にかけて作曲した作品といわれている。
クララに想いを寄せる前に、ロベルトには、短期間婚約していたフリッケン男爵の娘がいた。その父の口ずさむ一節から主題を取ったといわれる。あれこれ批評しているうちに、エチュードのイメージがわいてきたのだろうか。
これは、古今東西の音楽作品の中で、僕の知る限り最高にロマンテイックなピアノファンタジーである。ただ、シューマン本人は、一番の傑作は、幻想曲ハ長調と言っている。愛妻クララの気持ちを考えると、昔つきあっていた女性の思い出に作曲したものをいいと言えるはずもないだろう。でも最高の傑作だ。
主題の静かな短い歌いだしは、たとえようもなく美しいシルエットに出会った時のようだ。あとに続くバリーエーションにくっきりとその光景が浮かび上がってくる。そこには秘められた想いの告白、無限のあこがれ、もの哀しい夕暮れの湖畔でのたたずみ、寂しい魂のモノローグ。
現実の重苦しく鎖につながれたような無機的な情景を忘れさせる、歓喜に包まれたフィナーレは彼のピアノコンチェルト、ニ短調交響曲にあい通ずるものだが、本当に数少ないロベルト愉悦の世界だ。輝かしいフィナーレを聞き終わるとき、ブラボーと叫びたくなる。
ロベルトの死後、変奏曲の順番をあれこれ議論して並べたかえた二人がいる。クララとブラームスである。
学生時代から、この名作が一番好きだった。市販されているレコードは、ほとんど聴いてみた。なぜシューマンは、クララと7人の幼い子供を置いて、44歳という若さでライン川に投身自殺をはかったのだろうか、聴き終わったあと、いつも解けない疑問にぶつかってしまう。


都に雨の降るがごとく
谷村新二のアルバム。詩も音楽も大衆的ではないが、ひめたる大人の恋を歌ったものか、音楽的には魅力がある。


ドヴォルザ−ク スラヴ舞曲

ドヴォルザ−クと言えば、新世界(シンフオニー9番)が有名だが、叙情的な美しさにおいては、通称ドヴォ8こと交響曲8番が素晴らしい。さらに魅力的なのが、哀愁をたたえた甘美なメロデイー、華麗なリズムで知られる舞曲の数々は、まさに傑作である。



マーラー 巨人交響曲1番

20台のころ、深く共感し、ブルーノワルター指揮のレコードがすりきれるまで聴いた曲だが、20年くらい聴いていなかった。あまりに激情的で重たく、感傷的で、正直大変疲れてしまうだからだ。深い哀しみと同時に諦めの情感がただよう後期の作品とはかなり趣きが異なる、胸の内をストレートに大胆に表現していく、青春の悲痛な叫び、解決の歓喜のフィナーレは圧巻である。


ジャック ルーシエ トリオ
ジャズの名曲は数多いが、このトリオは、バッハの音楽をジャズにアレンジしてレコードにした。味わいがあって、10数年来、あきないアルバムで重宝している。ジャズに編曲されても魅力があせない、それどころか一味違った楽しい音の世界が開けている、さすがに大バッハだ。


ブラームス交響曲4番ホ短調
20代のころ、日本シューマン協会に入会した。会員番号は120番。好きな交響曲4番ニ短調の作品番号をもらって、毎月の演奏会によく通ったものだ。ある日友人に誘われ、ブラームス協会の例会に顔を出した。顔ぶれを見ると中年の男性が結構いて真剣に聴き入っている、てっきりブラームスには、中年の愛好家が多いんだなと思ってしまった。
あれから20数年たってしまったが、はっきりと今、その考えは訂正したいと思う。ブラームスは、決して言われるような中年向けの慰めの音楽ではない。
ショパン同様、シューマンによって才覚を見出されたブラームス。まもなく師の悲劇的な自殺未遂に直面し、残されたクララシューマンを熱愛した若き日のヨハネスが、その後一生の間に感じた時代の風向き、色合いはどうであっただろうか。ワグナーのパトロンであったドイツ皇帝ルードウ゛ッヒの自殺をテーマにしたあの映画の暗く沈んだ印象は、19世紀末の世相の一端を反映しているように思えてならない。世紀末が近づくにしたがって、時代のあだ花ともいうべき耽美主義が流行した。
楽劇という幻想的な過去の空間に逃げ込んでいくワグナーとは対照的に、ヨハネスは、喧騒と争奪の時代にあっても常に清冽なドイツロマンテイシズムの美学を追求している。
ホ短調は、3番同様、深い人生の哀歓を歌った傑作と評される。1,2番の楽天的な起承転結、コーダの力強い解決は、ここでは影を潜める。しかし、マーラー5、7、9番のエレギーやブルックナー8,9番の高雅な諦めの世界とは違う何か、が伝わってくる。
明るいイタリアの光の世界と異なり、年間ほとんど晴れ渡らないハンブルクで育った者の音感はやはり独特だ。何と情熱的でひたむきな意思が楽想の根底に息づいていることか。切なく甘美な情感の燃焼はたまらない、認めたくないがどうにもならない状況での葛藤は、時代を超えた青年のエレギーである。


チャイコフスキー交響曲5番

誰しもある日、思い出したようになぜか、無性にきらびやかで劇的な音楽に浸りたい時がある。
1888年、48歳の作曲家が成功を収めたこの作品は、甘美でロマンテイックな情感にあふれ、耳慣れたドイツ音楽にはない楽しい遊びが随所にある。そしてフィナーレの華麗さは比類がない。当時、彼は未亡人のパトロンの経済的支援に支えられていた。映画では、文通だけの間柄となっていた。
しばし、この曲は、仕事中毒から解放してくれる、何と華のある世界だ。
単にやかましく妖しい音楽といえば、ベルリオーズの幻想交響曲。
狂瀾怒涛というか、精神的にかなり危険な状態に引っ張り込まれてしまう。この20年間聞いていないが、いま聞いたらどう感じるだろうか。


ウ゛ァンゲリスのアンセム
2002年、日本人を夢中にしてくれた戦後最大の国民的イベント、あのワールドカップの公式テーマミュージック。何度聞いてもまったくあきないすばらしいメロデイー。ロック調の編曲もいい。民主党の応援歌にできれば最高だ。
長いことレコード屋で探してみたが、見つからず、ついにアマゾンコムのコンピュータ通信販売で検索して買った。これは実に便利な買い物ツールだ。どんな本屋やレコード屋さんもこれにはかなわない。


パルシファル前奏曲
この年になると時間のたつのがとても早く感じられる。だからオペラを通して聞く時間的精神的余裕はない。こんな時、ワグナーの前奏曲は、全体のエッセンスが比較的よく凝縮されている。
若いころに夢中になって聴いた全曲のイメージを思い出しながら、短い時間で耳を傾けるのに丁度いい。
これは、悔恨と救いがテーマの舞台神聖祭典劇と言われる。重苦しく胸を締め付けられるような短調が転調に変わっていく過程だが、息ができなくなるほど感動的である。ワグナーの中で一番感動的な音楽ではないかと今でも思っている。

ところで、舞台神聖祝典祭劇パルシファルは、清らかな愚か者の意味。悔恨と救済をテーマにしたパルジファルの音楽は、前奏曲は本当に良くできているが、全体を集中して劇として鑑賞するには相当にハードだ。学生時代は、不謹慎だが、寝るにはこれだ、と思ったほど。ドイツ語のテキストに不覚にもよだれをたらしながら、20分もたつと寝むり込んでしまう。何十回も眠りにつきながら、全体をようやく認識した作品だ。ドイツ人もテキストに精通していないと、舞台のドイツ語のせりふはよく分からない、と学者から聞いたことがある。バイロイトで観劇したことはないが、前衛的な映画フィルムを昔、一度見たことがある。実に難解だった。最近、第1幕を聴いてみたが、時間がもったいないと思った。

戦いで傷つき良心の呵責にさいなまれるアンフォルタス王を救済するのは、パルシファルという若者だった。中世の有名な円卓の騎士のドラマでは、アーサー王と呼ばれたが、このドラマを改作して音楽をつけたらしい。

ワグナーにとって、音楽とは、所詮、神秘的で華麗な古代の舞台を演出する侍女でしかなかったのか。モーツアルトやベートーベン、シューマンの世界とはかなり様相が異なるようだ。



シューベルトの即興曲作品90

貴族社会の贅沢三昧の生活習慣から抜けられず貧乏したモーツアルトとはちがって、フランツは極め付きの貧乏だったらしい。
「ぼろは着てても心は錦」の決定的西洋版だ。
フランツのピアノ曲には、長いものが多い。モノローグのように、寂しげにときに切なく歌っていくが、これは例外。このピアノ作品のような純粋無比の傑作をいくつか残し、彗星のようにこの世を去っていった。
シューベルトの名曲は、みな白鳥の歌である。


マイスタージンガー

前奏曲は、聴くものを本当に晴れ晴れとさせてくれる。ワグナーは学生時代にリングなどオペラは殆ど聴いてみたが、いまだに良さはあまり分からない。どこかに大言壮語する政治家の演説みたいなところがある。
バイロイトへ行く時間と金があったら、むしろ上海の京劇を見に行きたいものだ。


シューベルト交響曲ザグレート

グレートといったネーミングは、プロレスラーにさしあげた方がいい。音楽評論家にいいかげんな人が多いという証左だ。
未完成とならんですばらしい名曲。青春の哀歓と情熱がほとばしっている。ドイツロマン派芸術の最高峰だ。


香港の歌姫フエイウオンの夢中人

誰しもこの香港ポップスのビートにあわせて軽くステップを踏んでみたくなる。夢遊、永遠の愛などもいい曲だ。


ビルエヴァンス

ジャズピアノのアルバムを久しぶりに聴いてみた。マイフーリッシュハートなど、気持ちがほぐれ落ち着きを感じる。右手にグラスを傾けたくなる。


ガーシュインのラプソディーインブルー

ふと、アメリカ人の気風にアクセスしてみたいと思い、取り出して聴いてみる、ドイツ音楽のように納得のいく劇的な感動にはいたらなくても、気にいり、昼休みにしばしば取り出すようになった。
ひょうきんで、ねあかなリフレッシュ音楽で大好きになる。鉄鋼アンチダンピング問題で単身訪米したとき、商務省を出たときに見上げたワシントンのすばらしく青い空が思い出される。あの時、このタイトルの意味合いがのみこめた。


ノラ ジョーンズ

最近、若い人の間で人気のアルバムを聴いてみた。
喧騒の街中にいるような毎日でほっとするような気分に浸れる。殺風景なコンクリートジャングルの中で、しゃれた喫茶店に入った感じだ。


モーツアルトの弦楽五重奏ハ長調 K515

ニ短調(K593)とともに、セットで若い頃よく聴いていたが、最近聴きなおしてみて、これぞ元祖、癒し系の音楽と感じた。
これは、お金がなくて、スポンサーを新聞広告でつのって書いた作品だそうだ。きっかけは、飯を食うために書いた音楽でも、これほど深い情感をたたえた作品をかけるとは。傷心をいだいて旅に出た人が、美しい自然や暖かい人の情けにふれて癒されていくような感じ。


スメタナのわが祖国
とくにモルダウはみんなが大好きになる曲。いつ聴いても、気持ちが晴れ晴れしてくる。民族の歴史、素晴らしいボヘミアの自然、民衆の喜怒哀楽など叙情的なコクがぎっしりつまった名曲。


ベートーベンのピアノソナタ、ハンマークラヴィール
若いころは、この生真面目な音楽の展開がシリアスすぎてついていくのが大変だった。しかし、年をとるにつれて、少しずつ深い感動に包まれるようになる。つまり、やる気がわいてくる前向きな楽想。半年に1回くらいしか聴きませんけど、人生こんなに前向きに生きていけるというのは、素晴らしいことだ。自分が中年になってみて、あらためて彼の情熱には頭がさがります。


モーツァルトの交響曲39番
ファンの間で白鳥の歌と言われている名曲。明るく華やかなメロデイーと甘美な憂いを秘めた叙情性は、古典派音楽の最高峰とされる。