邪馬台国はやっぱり福岡県
日本のルーツ、現在もなお諸説がある。
中国の史書によれば、倭は、大昔100余国に分立していた。107年、30のクニをまとめた奴国の使いの帥升が洛陽を訪問。古代、アジアとの交易権の掌握に為政者は常にこだわり、権益をめぐる諸国間の緊張は絶えなかった。鉄製品の出土は、福岡が断トツ、熊本が続き、中国近畿は少ない。鉄など輸入される生産力増強の資材や技術文化がクニの盛衰を左右したからである。
184年の黄巾の乱から、中国は大乱に。洛陽は消滅する。後ろ盾を失った奴国の統率にかげりが生ずる。長き内乱の勃発。代わって邪馬台国が主導権を握り、女王卑弥呼を共立してやっと平和が戻る。魏志倭人伝のいう邪馬台国や旁国の地理の比定は難解だが、例えば好古都国。ココツと呼ぶ学者が多いが、好をハオと読めばハコト、つまり博多の古名ではないか、卑称を多用した当時の中国史書の中で破格のネーミングである。北東アジアのオアシスが存在したことになる。
それでは、当時の北九州は、どうだったか。遠賀川、紫川など河川流域で農業が発展し文明が開花する。筑豊は黒耀石、青銅の生産でも栄えていた。遺跡の豊かな出土品は、強大なクニの存在を想起させる。5万余戸の投馬国、はたして北九州、筑豊、豊前を含んだ地域だろうか。当時の人口は、基本的に農業生産力に左右された。倭人伝で万戸以上の人口が記されているクニは、邪馬台国7万余戸と投馬国である。生産技術が標準化した17世紀、当時の大名石高は、参考になる。黒田藩43万石、小笠原藩15万石、細川藩54万石。筑前の東部、豊前を合わせると大勢力になる。
古代の出雲は、銅鐸にみられる独自の文化を誇り、宗像から畿内北陸にまたがる諸国の一大拠点であった。出雲勢力との直接対決の時が近づいてくる。
239年、倭国高官の難升米が中国に朝貢、クナとの闘いに備え軍事支援を要請するが、245年には戦乱に。魏や邪馬台国連合軍に対抗したクナは、どこか。のちに出雲と連携する熊本の勢力だろうか。戦乱の中で卑弥呼は死亡、しかも王位継承戦争が勃発。247年、13歳の宗女トヨが女王に擁立されて国が治まる。266年、晋への朝貢をもってトヨの消息は途絶える。
歴史の霧が晴れるのは、7世紀。話し言葉は早くから古代日本に存在し、歴史の核心部分は伝承される。記紀によれば、統一国家の始祖は九州から来た。途中、宇佐と崗(おんが)に立ち寄ること1年余、瀬戸内をすすみ、大阪上陸作戦をへて、熊野に迂回し再上陸、北上して奈良で建国をはたす。畿内で闘いと和睦、祭祀の地元融合がすすむ。銅鐸が埋められ、古墳が畿内で出現する。その後、出雲のクニ譲りという史上最大の作戦が始まる奈良時代、なぜか宇佐神宮の存在感は絶大であった。足立山に碑のある和気清麻呂の史実が物語る。
以下は、私の仮説。豊かな筑後平野をおさめた卑弥呼の居城は、秋月近くの山麓。女王の死後、一族は荒れ果てた慟哭の地を離れる。周防灘沿岸に新天地を求め、京都郡に遷都、祭祀の拠点を宇佐に置く。九州勢力は、東進の先発隊からの情報をふまえ、大規模な東進を決断する。女王トヨを盟主に再結集をはかり、洞海湾などで船を建造、軍勢を整え、遠賀川河口で必勝を祈願する。古代の洞海湾は、万葉集にも歌われた絶景の地、帆柱山系の上空をカラスが舞う中、大船団は出発する。豊前の海に連なる豊穣の海、そのかなたに夢をはせ、陽のいずる方向にひたすら東進したトヨ、九州勢力を鼓舞しながら、辛酸をなめた東遷の旅に殉じる。日本最古期の前方後円墳、箸墓古墳は、3世紀後半の築造とされる。箸墓は、統一国家日本の成立した飛鳥まであとわずかの地にある。
(西日本文化に寄稿)